名前 = T・M 性別 = 男性 age = 30to39 メッセージ = > 質問です。 > 鍼灸師さんの腕の違いとは、どんなところで現れるのでしょうか? > たとえば、ある疾患に対して、A鍼灸師さんもB鍼灸師さんも同じツボにハリを打った場合でも 効果の違いは相当あるものでしょうか? > |
ツボ探検隊の松岡です。 さてこれは面白いご質問を頂きました。 よく考えてみますと、限りなく自らの首を絞める可能性を待ちますから、業界でも具体的に鍼灸師の腕の違いによるランク付け(格付け)の考察は行っていないでしょう。 確かに星の数ほど流派がある日本の鍼灸界に於いては何とも難しい問題ですが、しかし、如何に己の首を晒しても、玉石混淆甚だしく、いつか誰かが声を発すべき問題だと思います。 (しかし実行は至難!) 実は中国におきましては同じ鍼灸医でも主治医師→副主任医師→主任医師→教授などの格付けが全員に有り、病院では各鍼医の格付け、身分が病院玄関前のボードにしっかりと明記されています。 当然ながらランクの横には料金表が記され、上と下では初診料、鍼治療費が倍以上違ってきます。 日本では「教授」というと大学の先生の意味ですが、中国では主任より上の「最上ランク」の意味で「鍼灸教授」とあっても必ずしも大学で鍼を教えているという訳では有りません。 「後進に教え授ける程の経歴と腕前の持ち主」との語句通りです。もちろん「主任」も日本語の「主任」の意味とは違って「もっぱら任せて大丈夫」な医師で、同じ病院の鍼灸科にも「主任医師」はたくさん居る訳です。 しかし、この様な具合に絶対に成らないのが日本の鍼灸界です。 先ず第一に中国では鍼灸治療は医師(鍼灸医)だけが行いますから、広い中国全土でも官僚国家らしく鍼灸医学会もほぼ一本化されています。 それで様々な局面で統一見解を容易に得られる環境に有るのです。 かてて加えて、病理学も陰陽五行に基づく中医学理論に一本化されていますので、どの鍼灸医も同じスタートラインに立って診断を行い、治療を開始する事になりますから、個々の鍼灸医における能力の比較検討が容易です。 翻って日本の場合は鍼灸の歴史は古くとも全国を統一した鍼灸医学会を持っていません。 そもそも中国では視力障害が有る人は医師には成れない為に盲人鍼灸師は居ませんが、 日本において鍼灸は視力障害者の数少ない職業の一つとして位置している事もあり、鍼灸業そのものが医療なのか福祉なのか明確でない、むしろ実態から察するにベクトルは明らかに「医療」には向かっていないのです。つまり、大別すると障害者福祉業務としての「鍼灸」にベクトルを置いた鍼灸学会と我々健常者が所属する医療を標榜(!)した鍼灸学会とに別れています。 更に中国ではどの鍼灸医も同一の陰陽五行の中医学理論に基づいて患者さんを診ますから、診断において原則的に大きな意見の差は生まれないはずですが、日本では江戸時代に陰陽五行を非科学的であると断じ、固有の鍼治療法が発達した為に今や何とほぼ鍼灸師毎に理論も治療法も千差万別という状況になっているのです。 要は鍼灸を巡る環境が日中で如何に違うかと云うことで、中国並に純粋に各鍼灸師の腕前が格付けされる可能性はまず無いので、今から私が記す事柄も実現を見ない、所詮は机上の空論、絵に描いた餅(モチ)であります。 しかし、せっかく頂いた餅種(モチダネ)ですから、思いっきり大きく描いてみる事にしましょう。 さて「鍼灸師の腕の違い」の基本はやはり正確な診断術でしょう。 何より患者さんの病状に対する東洋医学的見地からの分析が必須です。 現代医学の診断とは異なった視点から身体を診る事に、そもそも東洋医学を生業とする鍼灸師としての存在価値が有るはずですから。 その分析と診断によって鍼治療でその方の病状が改善されるかどうかが決められます。もちろん、時には鍼灸治療が相応しくない、少なくともベストチョイスでは無いと診断する事も多々有ります。 しかし、肝腎の診断術も日本では前述しました如く、オリジナルに溢れている訳ですが、所詮、中医学理論も長い歴史に耐えて鍛え上げられたとは云え、元々は創作には違い有りませんから、日本鍼灸の様々な治療理論を荒唐無稽と一瞥、一蹴、排除する必要十分な根拠は無いのです。 例え病理論の展開にいくらかの無理や破綻が見られても、生命の真理の何らかの一端には抵触している(かすっている、ニアミス?)からこそ、それなりの支持を得ていると考えるのが妥当でしょう。どんな山も登頂ルートは一つではなく、ルートが違えば見上げる山頂に至る景色も様変わりするのは不思議ではないはず。 しかし、まあ、どちらにしても大まかに表現すると西洋医学の損傷した細胞から始まり小から大へ、内から外へと拡大して病気が進行すると考えるのではなく、全体像(バランス)の崩れ、歪みから個々の組織や機能が損なわれ、病気が発生すると考える方向性は日本も中国もほぼ同じです。この東洋医学的(ホリスティック)診断能力を①とします。 ②は診断に基づいて症状を治めるツボの選定と組み合わせ方(配穴)、ツボの正しい知識と働きを知り、選択肢を多く持っているかどうか。 中国では医師によって①は少々違っても②は結局ほとんど同じだったりまします。①と②は概ね連動していくものでしょう。これらは鍼灸師の勉強時間に左右される部分です。 ところが、次の③の能力は①②とは全く違って、選択したツボを正しく取って、症状に応じた適切な鍼刺激が行えるかどうかの純粋に手技の術となります。 これがいわゆる鍼の腕の違い、テクニックで、そしてこれが鍼灸を鍼灸たらしめている核心とも言えます。 何故ならば①と②は時間を掛けて知識を獲得すれば、要するに「ガリ勉」でそれなりの能力を得られるのです。この点では西洋医学の内科領域の医師等とよく似ているでしょう。 しかしこの③は、そう簡単ではないのです。 各人が自己の身体状況を体表に表現した皮膚異常、つまり「ツボ」を発見する事、これが③の能力の半分以上を占めると思いますが、しかし、もう非常に難しい。 私は常々新人鍼灸師さん達にこれが出来たら、鍼灸師として(経済的に)一生安泰ですと断言して、繰り返し指導しているのですが、 正直に申しまして、私の元では今までにその様な新人は誕生していません。 逆にこの点では指先の感覚に優れた盲人鍼灸師に圧倒的に軍配が上がるでしょう。私のところにも盲人鍼灸師以外の腕は信じていなかったと言う鍼通の患者さんが時々来られます。 おもんぱかるに、日本鍼灸と中国鍼灸の相違点の核心には盲人鍼灸師の存在が大きいと思います。つまり「ツボ」が概念ではなく、実際に触れてみて感知できる、そこに実体が在るものという日本鍼灸のアイデアは盲人鍼灸師の存在が大きいはずです。 (江戸時代その鍼による難病治療の功績から徳川将軍より「旗本」の位を授かり、神社(杉山神社)まで建立された日本の歴史上最高位の鍼灸師「杉山和一」は盲人でした。) 中国に行ってツボが本当に存在する実体のあるモノですよ!と訴えても理解する鍼灸医はほとんど居ません。驚くべき事ですが、「何をバカなことを」と言わんばかりの表情で見下されます。中国から来られている鍼灸師さんも本国の鍼灸師とほぼ同じ感じでツボを理解してる様で、ツボを触って、その存在を確かめずに既に位置が決まったモノとして扱っている様です。 しかし最も古い鍼灸古書にははっきりとツボに触れて確認した内容が書かれていますので、現代中国の鍼灸師さん達は手っ取り早い鍼治療の虎の巻は多数読んでいても、実は歴史的古典は真面目に読んでいないのだな、と分かってしまう訳です。 しかし盲人鍼灸師は古典医書を読まずとも、自らの指の感覚で古典医書に書かれていたツボの存在と意味を実感したのでしょう。でないと杉山和一の様な盲人名医は生まれなかったはずです。 例えば「肩こり」でもそれを治すべく鍼を打つツボは、決して固く凝っている部分では無いのですが、健常者の鍼灸師に鍼を打たせると決まって肩の一番固く凝っている点を探し、そこを狙って鍼を打っているものです。 しkし凝っている所に鍼を打ってもその場しのぎの効果しか無く、数日後には元の木阿弥で本来の肩こり症は治りません。 凝っている所の頂点を見付ける事に終始していては、凝っていない所との不連続線が提起している問題を発見出来ません。 それでは固い筋肉を揉みほぐそうとする按摩と同じです。接骨院の鍼もほぼ同じタイプですね。 早い話、腰でも肩でも筋肉が固くコっている所を探して鍼を打つのは腕の無い鍼灸師と断じて良いでしょう。 少なくともその治療は「ツボ」の意味が分かっていません。その意味で既に多くの盲人鍼灸師に劣るでしょう。(但し盲人鍼灸師は①の診断術において非常にハンディが多いのですが・・。) さて何とも長い回答になっています。 この上に又、鍼のテクニックについて話すと本当に本が一冊書けそうです。 余りに長くなりますので、結論を先に言いますと、同じ病気の方に全く同じツボに鍼を打っても鍼灸師により効果は百人百様です。 先ず鍼を刺す瞬間、つまり針先が皮膚を切り裂いて体内に入る瞬間からして非常に大事で、これに先ず個人差、腕の違いが大いに出ます。 投げ釣り名人の投げた錘はおそらく大きな水しぶきも上げず、水面を力強く素早く切って目的の水深に達するでしょう。 そう言えば水泳の飛び込み競技でも飛び込んだ時に大きな水しぶきが上がるのは下手な選手です。 湖の水面に石を投げ込んても、速球投手ならばほとんど波紋を広げずに投げられるのではないでしょうか。 彫刻家だって例えばミケランジェロが(例えが如何にも唐突ですが・・。)大理石にノミを打ち込むスピードと力強さ鮮やかさは比類無きものがあったはずです。 鍼も同じです。 鍼灸師の鍼を打つ手指の力が鍼の先端に素早く確実にジャストミートしているかどうか。 これが多少でもミートせずにゼロコンマ数㎜でも刺すべき皮膚の左右にぶれると、表皮細胞を多く傷つけ、鍼を打たれた人は痛みを感じ、治療に不要な緊張を誘発します。 釣りでも彫刻でも道具とそれを操る人間の意識に一体感がないと自在に目標物を操れないはずですが、鍼も正しくそんな感じで針先に自分の眼(CCDカメラ?)が付いている感じで患者さんの体内の状態をリアルタイムで感知する能力が要ります。 これは子供の頃から練習を繰り返していたら、きっと誰でも身に付くはずですが、脱サラして鍼灸師を目指している人にとっては最も獲得し難い能力です。 「ツボ」が治療にも用いると同時にツボの観察が病気診断の要(かなめ)であるように、鍼は治療道具で有ると同時に体内に入って内部を調べる内視鏡とも成るのです。 以上はあくまで鍼のテクニックにおける概論で、実際の臨床ではそれぞれの患者さんのその日の症状やツボの状態、位置に応じた刺入スピード、角度、深度、 鍼へのG(重力)の掛け方、捻針、鍼回転速度、方向、衰えた身体を補なう補法、逆に興奮を鎮める寫法等々と鍼のテクニックは限りなく奥が深いもので、一度の治療も多くのファクターの積み重ねで進行しますから、同じツボに針を刺して同じ効果を求めるのは実は同じ鍼灸師が行っても難しいほどです。 私は出来ませんが、中国の歴代鍼灸名家の医師などは気功術も先代から教え込まれていますので、鍼を刺した手から患者さんのツボに「気」を送り込んだりする鍼治療も行います。 よくテレビなどで気功家が気合いと共に気を放って、立っている人を後ろにひっくり返したりしていますね。あんな感じで針先から患者さんの体内にエネルギーを放つのです。私の体験では他の者が私の腕に刺した鍼柄に気功鍼灸師が触れて「気」が送られると、針先から熱が飛び込んできて、いわゆる温灸針に成りました。 もっとも「気功鍼」は先の中国の鍼灸医も自分が疲れるから滅多にしないと言っていましたが。 まあ鍼の技法などを話し出すと本当に話が尽きません。もう、この辺で止めましょう。 ※追記 鍼に限りませんが、幾らテクニックに優れていても人間性に問題が有ると、治療を受けるのがはばかられます。 誰でも最初っから腕が良いはずはないのです。 その鍼灸師が常に謙虚で足らずを知り、勉強や努力を怠らない人間であろうと思われたら、多少は未熟な腕前でも患者さんの方で「これから名鍼灸師に育てて上げよう」くらいの懐(ふところ)の深さを持って見守って上げて欲しいというのが誠に厚かましいながら正直な私の心情です。 今にして思えば私自身も若き日はその様な篤志家とも言うべき患者さんの存在に助けられた想い出も懐かしく、鍼灸師を育てるには患者さんの力が大きいと思っているからです。 前述いたしました、江戸時代に活躍した歴史的名鍼灸師と言われている「杉山和一」も実は「おくて」で伊勢の親元より預けられた江戸の鍼医から「頭は魯鈍、手先は徹底的に不器用! どんなに修行してもお前は鍼医者には一生成れない」と「破門」を申し渡された経歴を持つ、「運 鈍 根」の成功法則を地でいくような人間だったのです。 05.6.15 |
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