この問題に対するごく個人的な考察 PartⅠ  
※引きこもり状態にある方から頂いたメールに対して送信した内容をコピーしています。

まず最初にお断りしておかなければならない事があります。私自身は”引きこもり”状態にある方々とは恐らく正反対のお気楽な楽天主義者で、人間大好き、見知らぬ人はもっと好きという「感動」を求める「好奇心」ばかりで生きている人間ですから、対人恐怖感、人見知り等等まったく経験がありません。そして”類は友を呼ぶ”と言いますか、私の親しい友人達は皆さんほとんど私と同じタイプの人たちです。
ですから以下の内容はその様な人間から見た”引きこもり問題”と解釈されても良いし、また現在”引きこもっている”方には世の中には貴方とは全く違う価値観を持ったこんなお気楽な人種が結構存在しているという事実を知って頂くというところに意味があるかも知れません。

こんにちは! 
返信が遅く成ってしまいました。
10日前にはほぼ同じ内容のメールも他の方から頂きました。
現在日本では自宅に閉じこもっている人たちは100万人はいるのではないかと云われていますが、このような国家的大問題とも言っても良いくらいの事態に貴方も書かれている通り具体的な対策方法は何処を探しても全く示されていません。
当院には自宅で息子さんが閉じこもっている事が原因で現在心身症の治療に通っているご婦人の患者さんたちがいます。
ご自分から来院されて針灸により回復して元気に活動を再開された男性もいますのでこの方々の息子さんにも是非治療を受けに来てくださいと再三お誘いしましたが来てくれません。
このメールを下さった貴方の場合はきっかけさえ掴めば大学に復帰できる気力をまだまだ十分にお持ちであると思っています。

ところで貴方のような引きこもり状態の人々や何か人間関係でマイナス要因が続け1ばそう成りやすい「引きこもり予備軍」が多いのが最近の日本人の特徴だと私は感じていますので、突然ですがここで私なりに考察を試みたいと思います。
思いつくままに書き綴っていくつもりですので、脈絡が前後する事も多々あろうかと思いますがお許し頂きたい。
まず思い出すのは、毎年中国に行きますが、現地の日本料理店で働いている日本人に聞くと「日本に居る時は自分もずいぶん暗かった」等とよく言っていましたね。
みんなが思い思いに協調性など求められずに生きている中国人は自分がやりたい事だけやるのだから人の顔色を見る必要が無いのでみんな明るいと言ってました。
ある日本人は職場の人間関係に疲れて「うつ病」に成り、一人旅をしながら考えた結果、日本人とは違う価値観を持つ人達の住むところで一からやり直そうと国外に出たと言っていました。

日本の場合は良く似た価値観の人達が余りに多過ぎて、ちょっとでもそこから外れると、メジャーからはみ出た自分が幸福に見放された駄目人間のように感じやすく、そうならない為には、いつも協調するノルマを負わされてる感じで自己を自由に表現できずに息苦しく成るんではないですかね。

ところで先に書いた私の思っている「引きこもり予備軍」について説明させて下さい。
私が感じているこの人たちとは、自分自身の価値感を最優先させて生きていない人たちのことです。
つまり周りの人間が自分を見る眼を意識する余りに受動的でしか行動出来ない人たちなんですよ。
周りにいる人間は全て自分を採点、チェックしている面接試験官のように感じているので、そこで交わされる会話は本人にとっては丸で口頭試問でしかないのです。
不用意な言動で馬鹿にされるのではないかと相手の顔色ばかり見てしまい他人の中では全くくつろげない状態ですから、結局このような考え方の人は「人疲れする」人に成ってしまいます。
特に第一回目の面接試験(?)である「初対面」の人との対話が第一印象を形成する重要度から特に緊張するので「人見知り」が強い人にも成ります。
このように、人の輪の中では自分が回りから厳しい人格テストを受けているかのような一種の被害妄想状態にあるので、常に人前では減点が無いように振舞おうとする余りに行動が抑制されてしまいますから、このタイプの人たちは概して「おとなしい人」に成らざるを得ません。
「人疲れする人」たちにとってはモチベーションが下がった時の「引きこもり」=Far from the 面接試験 with 口頭試問=は自分のプライドを守る行動として選択されて当然です。

私は日本人の「おとなしい人」とはこの様に「被抑圧的発想の人間関係で生きている人」がかなり多いと思っているので「おとなしい人」が時には暴発して凶悪事件にいたる可能性を持つのも至極当然だと思っています。
常日頃から周りから見張られている被抑圧感覚で、自分を素直に表さずに抑えて小心翼翼と暮らしているとしたら、その溜まっている精神的ストレスは大変なものでしょう。
ですから、そこに引き金になるトラブルが重なると抑圧された感情が爆発するのも当然です。
「窮鼠猫を噛む」に至るのです。
車を運転すると人格が変わったり、外国旅行をすると「旅の恥は掻き捨て」を地で行くような行動を取る人たちも同類でしょう。
日頃自分をチェックしている(されていると思い込んでいる)人間が居ないところでは態度ががらっと変わるのですね。

人間にはおおよその平均的な体力が有るように、感情にもおおよその平均的総量があるとしたら、おとなしくて 表面に発散させていない感情の分量は、地下のマグマのように日々どんどん膨らんで心中に溜まっているはずですからね.
きっかけがあれば「噴火」に至ってもいたし方有りません。
このタイプの人たちはストレスを解消する「ガス抜き」が日々の生活上に絶対に必要な人たちでしょう。


ところで理屈はともかくとして、現実に周りの人間に自分がどう見えているだろうかとか、第三者からの自分に対する評価ばかりが気になって自分を素直に表現できない人はどうすればよいかですが、
しかしこれは大変な難題で一筋縄では行きそうも無いので、もう少し事態の分析を試みながら方策が無いものか探っていきましょう。

確かにほぼ単一民族といっても良い日本社会であっても、個々の価値観は結構様々なものですよ。
国民の大半が中流意識を持つ市民社会が成立しつつあり、個々人がそれぞれ自分流の生活を楽しんでいる現在では昔と違って生き方に対する価値観も当然のように多様性を帯びてきますね。
具体的な人間に対する価値観の差というか評価例を思いつくままに羅列してみます。

●宗教による違い 日本では諸外国と違ってさほどでは有りませんが、それでも私の友人のカルトにはまっているお子さんが異教徒は全て「サタン」=悪魔であるとつい最近言っていたのでカルト全盛の世になればこんな感覚の人間が増えるのでしょうか。

●お金の有る無しで、つまり、相手が貧乏人 OR 金持ちで人間を評価を決めてしまう人。
金持ちならば馬鹿でも無礼でも許せると言い切っている人って意外といますよ。
金持ちとだけ付き合いたい、万事金の世の中と割り切っている人ですね。

●何よりも見た目の良い人、たたずまいの美しい人、美形好みの人もいますね。
金も力も無くても色男はやっぱりモテますね。
見た目で全て判断するタイプの人たちも珍しくないですね。
逆にこのタイプの人は余りに美形の人間を嫉妬して出世を妨げたりするケースも有るという話も聞きます。

●教養というか学歴を聞いてから、やっと本気で人と対応する人もいます。
物知りとか訳知り好きの人ですね。
この様な人は世事万端の知識に疎い人とはまともに交際しようとしません。

●健康か病弱か。
常に病と闘っている人にとっては「病気知らず」はやはり異邦人であって親しみを感じないでしょう。
同病相憐れむというところは確かに有るようです。

●運動神経が発達しているかどうか。
何故かスポーツマンはモテますよね。
スポーツバカなんて言うのも恐らくは嫉妬半分の言葉でしょう。
身体能力の高い人を取り合えず優秀な人間と位置付けるのは、昔よりも現代のほうが顕著な事実ではないですか?

●お笑いのセンスの有るなしで人を評価する人
最近笑いのセンスのある人が好まれますね。
ムードメイカーと言われたり、場を和ませる人として人気急上昇のタイプです。

●酒の飲める人、飲めない人
酒を飲まないと打ち解けて相手と話せないと思っている酒好き人間も案外多いですよ。
この様な人は下戸に対しての評価は辛いし、親しみを持てない、人種が違うと思っていたりしますね。

●タバコを吸う人、吸わない人
嫌煙家はどうしてもタバコを吸う人を毛嫌いしますね。
人の迷惑や自分自身の健康にも無神経な愚かな人間だと思っている感じですね。

●礼儀正しい事が人間にとってもっとも大事だと思っているお年よりも多いですね。
礼儀は一種のスキルであって、その様に仕込まれた者はパブロフの犬のごとく丁重な挨拶などが無意識的に出来てしまうみたいです。
ロス疑惑事件の殺人容疑者・三浦和義氏も既に前科のある男ですが、テレビで見ると何とも礼儀正しい物言いをする人でとても印象的でした。

そういえば伊集院静のエッセイで彼は
「ギャンブルをやらない人間は信用出来ない、従ってギャンブルをやらない人間とは真の友人に成れない」と書いてあって新鮮な驚きを感じました。

つらつらと思いつくままに書き並べてみましたが、事ほど左様に同じ日本人でも人間の価値観、自分以外の人間に対する評価基準といったものは様々で、人間歴が長いほどより一層その格差が大きくなる傾向がありますね。

つまり人間は一人一人、それぞれがそれなりに自分自身の境遇や生き方、趣味趣向によって微妙に違った座標軸を持って物事を判断しながら生きている訳です。
早い話、各自が目盛りの幅が全く違う上に「偏見」と言うバイアスが思いっきりかかった独自のメジャーを持って他人の好感度を好き勝手に測っているのですから、そんな評価には絶対的な真実など無く、非常に可変的且つ流動的なもので有ると思わないといけませんね。

そこにあるのは単に好き嫌いの好みやその人の置かれている立場、生き方に対する趣味性であり、この地球上でかけがえの無い、唯一無二の自己(自分自身)の人間性をそんなあやふやな第三者の基準で測定、評価されてはたまったものではないと憤慨すべきなのです。

所詮、人間は誰よりも自分自身が一番大切で自分が幸福になる人生にこそ最大の意味があり興味があるはずなので、(又それが生命として最も健康的であり、正しい人間の姿だと思いますが)
赤の他人について詳細にチェックするメリットなど「金貸し業者」でもない限り普通は無いのですから、本気で他人の評価ばかりを気にするのは本来の人間の姿からは外れているのと考えるべきですよ。

人間は自らの時間の中で築きあげた価値観に従って堂々と生きていけば良いので、たった一人のかけがえの無い「自分」の人生を自分色に染めて満喫すれば、この世の中に生まれた幸運を味合うことが出来るのです。
周りからの意見は自分流で取捨選択すれば良いのでいたずらに惑わされたり、他人の評価におびえる姿も大人気ない。
現代に生きる私達には生まれつき決められた身分なども無く自分の人生は自分自身の努力で自由に演出、監督する権利を与えられているのですから大いにその恩恵を謳歌したいものです。
(長い人間の歴史でも出生による身分で支配者と被支配者の区別が無くなってから(人権宣言=1779年)まだほんの200年余しですよ)

私がここで書いてきた事を一言でいうと「自己の確立」って奴ですよね。「個の確立」と言っても良いですよね。
自分流、というか自分らしい生き方のルール(法則)を自分自身でしっかり立ち上げているか、もっと平たく言えば真の精神的「大人」であるかどうかですね。
私の云う「引きこもり予備群」とは言い替えると、自分で自分の人生を自主的にコントロール出来ない、「自分流のルール作りが出来ていない人たち」で精神的な意味ではまだ「子供」に過ぎない人たちです。
この人たちにとっての自分の姿(自己)は周囲の他人の目に映っている「影武者」のようなものですね。
人生の行動を決定付ける真の支配者は自分以外の周囲の人間になってしまいます。
他人の作った生き方のルールにいつも引きずられて生きている感じなのです。
周りの人の顔色次第でコロコロと自分を変えているので個の確立に必要な他者との相克(戦い)の場数を踏んでいないのです。

この「自己の確立」は青年期においての最大の難事業のはずですが、学校でも家庭でも日本ではこの大事業の支援システムは現在は全く持っていないですね。
早い話、これが現代日本の精神教育における一大特徴(マイナスの意味での)であると思います。

親や先生の言いなりに成る、「思考放棄した子供」を「良い子」として誉め上げ、言いなりに成らずに「自分で考えて発言し行動する子」を「口答えする生意気な子」とか「反抗的な子」とか評してしまう愚行を今も延々と続けています。
そうすると、どうしても「良い子」に成るために自己を放棄してしまう子供が出てきます。

日本では自分の考えを堂々と主張する事が人間にとって最も大切な「自己」=「独立心」を養う為に必要な行動だとは子供達に教えません。
自己と他者との軋轢(あつれき)を体当たりで乗り越えないでは自我は成長しませんが、むしろ、「協調」と称しての「集団への従属と同化」ばかりを教育しますから、精神的エネルギーのよほど強い子供でないと他者と相対する「自己の確立」などは出来ないのが日本の現状です。

ですから、この国の問題解決法は、昔から長いモノに巻かれて黙って従うか、反旗を翻して反抗するかの二者択一しかないのです。
(ごく偶には勇者が現れて西洋風の解決に至る場合も有る)

こんな環境ではお互いが自分の意見を対等に述べ合う真の「議論」は滅多に成り立ちませんね。
黙って相手に従わないで意見を言うと「反抗」と見なされてしまうのですから、余程の覚悟がないと周囲と違った自己の考えを主張出来ません。
この暗黙の日本的精神環境が、「自己の確立」を大いに阻害する訳です。
この「良い子」と呼ばれた思考放棄した子供達が、周囲と自分との葛藤期(反抗期)を持たないままに大人に成長すると、人間としての自己の確立はまず出来ませんね。
人間にとって最も大切なはずの「独立心」を持つには相当な「勇気」がいる国なんですよ我々の国は。
よく反抗期が大事だと言うのはこの事に拠るんですよね。

しかし、では何故に日本の精神風土は昔から変わっていないのに、現代の若者達の自己の確立がより一層困難に成っているかが問題ですね。
青年の幼児化には「父性の欠如」に大きな原因があるとしている識者が多いですね。
確かにかつての日本では後継ぎと成る男子の教育は父親の大事な仕事の一つであったので、逞しい男は強い父親によって育てられていたのでしょう。

今は頼もしい父親ほど公私共に多忙で息子を教育する時間は無いので父性の欠如の影響は確かに大きいでしょう。
しかし、昔から子供達は家庭でばかり成長していたわけでは無いはずです。
強い父親がそんなに多かったでしょうか?

5千円札の福沢諭吉も2歳で父を亡くした母子家庭の出身ですし、父親のいない家庭からも多くの偉人を輩出しているのです。
私はむしろ地縁(地域のコミュニティ)の欠如が子供達の精神形成に大きな負の影響を与えているのではないかと思っています。
まず第一に、戦前の日本人の90%近くは借家暮らしをしていたのですね。
ほとんどの日本人は貧しくて、又それが普通でした。
都市部では多くの人は「長屋」と呼ぶ平屋建ての壁の薄い連続した部屋のような家に住み、「長屋文化」とも呼ぶ濃密な人間関係の中で生活していました。
このような長屋が集まって”ご町内”になっているのが下町の姿でした。
落語に良く出てくる八っつぁん、熊さんは事あるごとに「町内のご隠居」に相談に行っています。
大人もご近所の訳知りや年長者に子育てやら縁談やらと何彼と無く世話になっていたのです。
都会の子供達もこの長屋単位で年齢を超え徒党を組んで遊んでいました。
この様な貧しさ故の濃密な社会から高度成長をきっかけとした豊かさが日本を変えてしまいました。
現在のようなプライバシーを尊重する生活からは社会から孤立した人たちを大量生産してしまうのは必然なのでしょう。
豊かさは「孤独」を「おまけ」に付けてやって来るのですね。

40年以上も昔のことですが、私自身も上下でおおよそ10歳ぐらいの年齢差の子供達と徒党を組んで毎日のように遊んでいました。
近所に住む自分よりも4,5歳年上の子と数年年下の子を交えてグループを作り、毎日のように一緒に遊ぶのが私に限らず昔の日本の子供達のごく日常的な姿でした。
子供の遊べる空き地も多かったですしね。
年上の子からは遊びばかりではなく難しい言葉や大人の井戸端会議から仕込んだ近所の噂話などを教わり、時には狡猾ないじめに有ったりしても、逆に年下の子達に偉そうにして説教ごっこで溜飲を下げてはうまくバランスを取っていたのです。
義務教育を終える頃には年上の子は仕事についたりして仲間から出て行き、幼児だった子が成長して仲間に加わるなどして世代交代が行われていました。色々な子供同士の遊びもこのように上から下へと代代伝わっていったのです。
大人たちの井戸端会議の内容は年長の子供の口から年少の子供に伝えられていたので当時の子供達は今よりもはるかにご近所情報に詳しく大人達の人間関係にも通じていたように思います。
格段と知恵と力の強い子は「ガキ大将」となって徒党を取りまとめ、より多くの子供達を引き連れて遊びました。
総じて彼ら「ガキ大将」は意外と高いモラルで子供達を仕切っていた為に仲間から尊敬されることも多かったのです。
幕末から明治にかけて活躍した志士達は文武両道に長け、本当に若くして頭角を表わし見事に日本を変えてしまったのですが、おそらく彼らは当時の日本の「ガキ大将」の進化した人たちではなかったかと思わずにはいられません。
かの西郷隆盛も大久保利通とは近所の幼なじみ同士ですし、坂本竜馬、伊藤博文、高杉晋作などもすべて20歳そこそこで歴史上の活躍をスタートさせていますからね。ガキ大将は貴重な人材だったと思うのです。
松下村塾を開き前記の人たちを教えた吉田松陰も亡くなったのは何と28歳ですからね。
当時の日本の子供達が早い時期から親離れ出来ていたのは、早くから大人の世界を開放的な地域コムニティから学び、遊びを媒介とした年齢幅のある子供同士の世界でしょっちゅう喧嘩もして鍛えられる事で人間関係の機微を学び、自己を確立するチャンスを得ていたと考えられるのです。
昔の子供達は現代の子供とは違った濃密な地域コミュニティの中に存在し、あやふやながらも自然な形で「他者」と「自己」との健康的な距離を学習しながら成長できたのではないでしょうか。
やはり、当時の親達でも今以上に一日中労働に追われる者も少なくなかったはずですから、父性が勝っていた子供達ばかりとは思えません。つまり父性の欠如だけに現在の青少年問題の責任を問うのは無理が多いと思います。

町内のご隠居さん、小うるさい近所の大人たち、それにこの子供集団が「親は無くても子は育つ」の「育て親」になっていたはずです。
片親の子供達でも近所の人たちに何くれと無く面倒を見てもらい心細さをしのいでいた話もしばしば聞きました。

しかしこのどれもこれもが現在の日本には無くなってしまったものばかりですからね。
今や「親が有っても子が育たない」のは、無くなってしまった「彼ら」の存在が如何に大きかったかと云うことではないでしょうか?
年上の子と混じって毎日遊ぶことは、数年後の自分の姿を眺めることに成りますし、年下の子を見るとちょっと前のもっと未熟な自分を思い出せるのです。
つまり、自分の「近未来」と「近過去」を同時に眺めながら成長できることは、無意識にも揺れ動く不安定な年頃の子供心に現在の自己の確認と将来へのささやかな安心感を与えていたはずです。

大人達が伝承する地域のお祭りはまだまだ日本各地に残っていても、子供達だけで年上から年下へと伝えるべき「昔からの子供遊び」は全く日本から消えてしまっているのは、日本社会において他の何よりも子供達の世界(人間関係)が昔とは変わってしまっている、かつては存在した大人から独立した「子供社会」を無くなってしまっている証拠ではないでしょうか。

今の子供達にとっての真の友達は同級生だけです。
昔のような上でも下でも年の離れた近隣にすむ幼な友達を持っている子はまず居ないでしょう。
目標とする年上の友人を持たずに同じ年の友達ばかりでは、どの悩み事を相談するにも価値観が近すぎて客観性が薄くなり、頼りなく感じるのではないでしょうか。
仲の良い友達が同級生だけと言うのは一方では受験戦争の「競争相手」ばかりが友達とも云える訳で心のどこかで息が抜けない緊張感を深層に持っている可能性も見逃せません。「本音を語れる友人」をほとんど持っていないのが今の子供達の特徴です。
本音を語れない友人はいくら居ても心の奥底の「孤独」は癒せないでしょう。
「カルト」に流れるのも無理ないですね。
以上の理由から年齢を超えた地域の子供社会「地域コミュニティ」を失ったことで、子供達の精神発達の格好の大きな機会を無くし、日本人の持つ「他者依存」の強い国民性の弱点ばかりが顕著になってきているのが「ひ弱な若者像」の正体ではないかと思います。

現在の子供達は日本的精神教育のマイナス点を修正するべく機能していたかつての大家族制度、血縁、地縁による開放的な人間関係から閉ざされた核家族という名のごくごく狭い世界で成長するしかないのです。

例えば、大勢の兄弟に囲まれ、親類の子供達もしょっちゅう遊びに訪れ、ご近所の老若男女の出入りも頻繁で毎日子供同士で夕暮れまで遊ぶ、そんな環境で成長した子供達にまず「対人恐怖症」など起こり得ないと思いませんか?
大勢の多彩な人の中で育つことはいかに沢山の種類の価値観を持った人間がいるか学習しているはずですからね。
他人を勝手に一種類の「強圧的な人間」と想定してしまって脅える感覚は生まれないでしょう。
昔の子供達は確かにどの子供達も今以上に多数の人間との日常的な交流がありました。 
貧しさ故の幅広いスパンで助け合う人間関係が子供達が成長する世界を広げていたのです。
豊かさから勝ち得た「プライバシーの守られる生活」はとんでもない「副作用」を持っていたのですね。


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